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飛行神社を創建したのは、明治24年4月29日香川県丸亀の歩兵第12聯隊練兵場に於いて、日本人として最初のゴム動力によるカラス型飛行器の飛行に成功した愛媛県ハ幡浜出身の二宮忠八です。慶応2年(1866年)6月、海産物を商う二宮家の四男として出生。少年時代忠八はおとな並の考えを持つ変りものとみられていた。
 忠八12歳のとき、父がこの世を去り、働くこととなる。明治13年伯父の薬種商の手伝いをするうち、物理や化学に深い興味を持ち、また測量技師の手伝いをするなど働きながら独学で得た知識を生かして、独創的で奇抜な凧を作り人々の関心をよび「忠八凧」と呼ばれた。
 明治20年(1887)12月、丸亀の歩兵第12聯隊付の看護卒として入隊、明治22年11月四国山岳地帯で行なわれた秋季機動演習中現在の香川県仲南町樅ノ木峠で昼食をとっていると、烏が4~50羽残飯を求めて谷を横切り、翼を広げ固定翼で滑空しているその姿に興味をしめし観察する。それが忠八の空を飛ぶ機械発明の大ヒント(飛行原理の発見)となる。
 以後研究を重ねて「カラス型飛行器」を完成し飛行に成功。次に人の乗れる玉虫型飛行器を考案、明治26年設計を完了し試作実験に入る矢先日清戦争が起り出兵。戦場の様子をみて、自分の考えている飛行器を軍に供用すれば、便利であろうと考え軍用機として軍によって研究開発してもらうべく、飛行器の設計図を上申書に添えて願いでたが却下される。
 忠八は、独力で作るしかないと決意し軍を除隊、日頃より信仰の強かった讃岐の金刀比羅宮に参詣して、飛行機の独力完成を祈願する。明治31年忠八33歳のときである。大志を持つ忠八は大日本製薬株式会社に入社、職工として活躍し品質のよい薬品の製造に心を注ぎ功績を上げて会社の発展に尽力した。
 ようやく自力で飛行機開発の条件が整い、資金も貯えられた明治33年忠八の出身地とよく似た地名の京都府八幡町に土地を求め、完成に向けて努力していた。ところが明治36年(1903年)12月17日アメリカのライト兄弟が飛行機を完成し、飛行に成功した情報に接し、忠八はこぶしを握りしめ無念の涙を流し、今飛行機を作ったとしても「欧米追従の飛行機」ライト兄弟の眞似をしたという評価しか受けないだろうと製作を断念したのです。
 日清戦争の戦場で開発を上申して却下されたが、大正8年(1919年)おもわぬことからその功績が認められる。世界はいよいよ飛行機の時代へと動き、飛行機による犠牲者が多くみられるようになる。それを知った忠八は、同じ飛行機を志した人間としてこれを見すごすことはできないと、その霊を慰めるために大正4年に八幡(現在地)の自邸内に私財を投じて飛行神社を創建し、航空安全と航空事業の発展を祈願したのが当神社の起こりである。
 現在の社殿、拝殿、資料館は平成元年飛行原理発見100周年を記念して、二宮忠八翁の次男二宮顕次郎によって建てかえられた。

二宮忠八(青年時代).jpg

忠八20歳頃

カラス型飛行器.jpg

​カラス型飛行器

大阪製薬期.JPG

大阪製薬時

玉虫型飛行器.jpg

​玉虫型飛行器

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